学区の生い立ち



 国泰寺中学校区の生い立ち


 現在、国泰寺中学校のすぐに東側に、南北に走る道路がある。ここは昭和20年代の中ごろまで川だった。古い地図によると、平田屋川または竹屋川とある。北は広島城の外濠に発し南は御幸橋に近く京橋川に注ぐ。この川にかかる竹屋橋のほとりにお地蔵様があった。現在、富士見町平和大通りに面し、竹屋地蔵として残っている。

 380年前、毛利輝元が広島と命名し、城主は福島氏、浅野氏と変わった。浅野氏の菩提寺である国泰寺の名を冠して、国泰寺村は新開として現在の千田町に広がっていた。

 明治5年広島県が生まれ22年には市制を敷く。そうした時代の流れの中で、町民は竹屋川をさかのぼる川船から似島の芋を買い、自らの排泄物をこの舟に託した。このあたりは商家が立ち並び、播磨屋町尋常小学校竹屋尋常小学校に通う子供たちは、白神社の祭りのみせもの小屋にもぐりこみ、戒善寺の御開帳の地獄極楽の絵に肝を冷やし、産業奨励館のホールで時たま開かれる西洋音楽合奏会をガラス窓の外から鼻を押し付けて聞いたのであった。暮れの町では餅花が売られ、外国人宣教師が町民に神の国を説いていた。

 日清・日露戦争での勝利は、子供たちが受ける教育に大きな色彩の変化をもたらした。大正デモクラシーは根を下ろさず、それから満州事変・日華事変・太平洋戦争と、日本の命運が大きく傾いていく中で、当時この地区にあった県立第一中学校・県立女学校・修道中学校の校庭から笑い声が次第に消え、軍事教練の号令が響き渡った。国泰寺の樟の蝉しぐれの下をカーキ色の兵隊の郡が黙々と歩き、そして消えていった。

 日本の敗色の既に濃かった昭和20年8月6日、テニヤン島から離陸したB−29爆撃機の弾倉につるされた爆弾は落下傘をひろげて産業産業奨励館の真上に落下する。十数万の市民、数万の兵隊、百メートル幅の延焼防止帯造成作業に従事していた中学校・女学生、疎開先のない小学校の子供、強制徴用労働の朝鮮の人々、そして数人のアメリカ人捕虜の上に劫火が走った。

 敗戦と破壊の中で人々は働いた。多くの骨を片付けて建てられた新制中学校に、少年たちがボロ服に下駄履きや、はだしで集まった。その屋上には紫の校旗と。赤十字の旗印がひるがえった。校庭からは市役所前を通る焼け残りの電車がみえた。空には不安はなく町は静かだった。

 竹屋川は暗渠となって、その上は舗装された。延焼防止帯は公園道路となり樹々の間に原爆慰霊碑が立ち並ぶ。春にはフラワー・フェスティバルの行列がバトントワラーを先頭に進み、初夏にか「とうかさん祭り」のゆかた姿がそぞろ歩く。その一隅にお地蔵様がある。


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     原爆投下後、市民の方々による校地の整地作業           原爆投下後、生徒奉仕による石垣工事

 小学校区


・ 竹屋小学校区 ・・・ 宝町・東平塚町・西平塚町・昭和町・流川町・鶴見町・富士見町・竹屋町・薬研堀・田中町・三川町

・ 袋町小学校区 ・・・ 袋町・小町・本通り・中町・立町・紙屋町1〜2丁目・国泰寺1丁目・大手町1〜4丁目

・ 千田小学校区 ・・・ 千田町1〜3丁目・南千田東町・南竹屋町・大手町5丁目・東千田町1〜2丁目・南千田西町
             平野町・国泰寺町2丁目

・ 本川小学校区 ・・・ 十日市町1〜2丁目・本川町1〜3丁目・猫屋町・榎町・堺町1〜2丁目・小網町・土橋町




 学区の特色


・ 中堅都市広島の中心地 ・・・ 市行政の中心部。

・ 歴史的位置 ・・・ 旧広島藩主浅野氏の菩提寺・国泰寺が学区内にあった。

・ 文教の中心 ・・・ 旧高師・工専・文理大・放送大学

・ 交通の要衝 ・・・ バスセンターに近く、各社の電車バス路線が通り、運輸会社も多い。

・ 経済の中枢 ・・・ 中央大手会社の支点・支社がビルを誇り、各所にショッピングセンター街がある。

・ 歓楽街    ・・・ 中国地方有数の歓楽街をもつ。




  

〒730-0042 広島市中区国泰寺町1丁目1-41 082-241-8108 >>アクセス >>メール